1864(元治元)年、当時外国人居留民向けのカトリック聖堂としてフランス人プチジャン神父の指導とフューレ神父の設計図をもとに棟梁小山秀によって施工され、禁教下にあった日本人からはフランス寺と呼ばれるようになった。現在国宝に指定された大浦天主堂の正式名称は「二十六聖人殉教聖堂」と言い、1596(慶長元)年に殉教した二十六聖人の殉教の地、西坂を向いて今も立ち続け、世界の宗教史上有名となった「信徒発見の地」の舞台である。
1865(慶応元)年3月17日、潜伏キリシタンが多かった浦上村から十数名がこの天主堂を見学にきた。迎えに出たプチジャン神父に向ってある隠れキリシタンが、「サンタマリア(聖マリア:イエスの母)の御像はどこ?」と尋ねた。そしてその場に祈りたたずむ人々がさらに神父に向って、「あなたの心と、私の心、同じ・・・」と語りかけ、実に250年に渡る世界で類を見ない程の厳しい弾圧の中で信仰を守り通したキリシタン発見のニュースは、神父のみならず、驚きと感激をもって全世界の人々へと伝えられた。これを機に浦上地区を中心に潜伏していたキリシタンは公に信仰を表わし始め、檀家制度の中で強制されていた仏教式の葬儀を拒否するなどの行動がいまだ禁教下にあった役人たちの目にとまり、ついに1868(明治元)年「浦上四番崩れ」と呼ばれる、更なる殉教の歴史が作り出されることになった。幕府二十一藩に信徒3414名が流配処分となり、664名が苛酷な拷問により死亡、信仰を貫いて5年後には1883名だけが帰郷することが出来た。(カトリックの人々はこの受難を「旅」と呼んで受け留めている)。特に山口県津和野の乙女峠などにおける浦上信徒達の信仰の証しは多くの人々の心を揺さぶるものがある。
ちなみに現存する日本最古のキリスト教会はこの大浦天主堂であるが、記録によるとその2年前の1862(文久2)年、外国人寄留地の東山手11番地に建てられたバンガロー風の小さな(プロテスタントに属する聖公会:英国国教会)教会がもし現存していれば、近世における日本最古のキリスト教会となったであろうことはあまり知られていない。
現在、この天主堂は特別行事以外では通常ミサは行われておらず、天主堂上り口に近代的なレンガ造りのカトリック大浦教会において諸活動が行われている。