私は、2023年に仕事の関係で神戸から長崎にまいりました。現在は、大学で教員として勤務しています。今日は、私の短い研究生活の中で、日ごろ感じていることをお分かちできたらと思います。
私たちは、礼拝のたびに「主の祈り」の中で「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ります。現在の恵まれた日本においては、「日用の糧」に事欠く状況を味わうことは少ないでしょう。えり好みしなければ、仕事もたくさんある時代です。
しかし、研究者の就職事情に限れば、大変厳しいものがあります。
私の分野の状況では、私が就活をする年、研究者を募集する大学はわずか12校ほどしかありませんでした。倍率は、どこも概ね60~100倍ほどといわれます。
また、国会議員みたいですが、研究者にも任期があります。短ければ2年、長くても5年です。この間に、成果を上げ、終身雇用の権利を獲得できなければ、大学を去らねばなりません。
今日は「日用の糧」があっても、半年後、1年後が見通せない状況で、学生の進路相談に乗りながらも、常に残りの任期や自分の身の振り方のことが頭をよぎるのです。
こうした激しい競争環境の中では、研究仲間を愛することが非常に困難になります。なんであの人があんなに評価されているの?あの人がいなければ自分にもチャンスが回ってくるのに。と思ってしまう機会が多くあるからです。実際に、心や体の病気になって研究をやめていった仲間たちも多くいました。
自分はキリスト者なのに、祈っても祈っても、どうして寛容でいられないのだろうかと思い悩みます。この状況で、求めるのはやはり「日用の糧」です。食料や給料だけではなくもっと根源的な、「霊的な糧」を求めるのです。
私は、大学院に入学してすぐに洗礼を受けましたので、研究者としての人生のほぼすべてを、イエス様とともに歩んでいることになります。私一人だったらきっとここまで来ることはできなかったです。私のような者でも、厳しい学問の世界で一隅を占めることが許されているということに、主の深い愛を感じずにはおれません。
最後に、ある讃美歌の話をして終わりたいと思います。
私が長崎に来る前、神戸の大学で助手をしていたころの話です。ちょうど神学部の前を通ったとき、有名な讃美歌の「主我を愛す」の一節が聞こえてきました。「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」というものです。慣れない大学の仕事や研究で疲れて、肩に力が入っていましたが、それがふっと抜けていくような気がしました。
私は、へこたれやすいですし、ずば抜けて賢いわけでもない、弱い者です。しかし強い神様が、私にも「日用の糧」を与えて養ってくださいます。
現在も、綱渡りのような歩みですが、幸いにも「日用の糧」は守られ、キリスト教主義の大学に導かれています。感謝しつつ「よき働きをなさしめたまえ」と祈る日々です。
『主われを愛す』が支えた私の研究生活
