Being Nagasaki~ 日本バプテスト連盟 長崎バプテスト教会 ~ English / Korean / Chinese
「禁足令下救護班として出動した、 本土空襲が初まってからは、夜も昼も、警報がなると、一夜中、一日中、興善学校地下室に、つめる事になり、睡眠など、思いもよらぬ時であった。下村産婦人科、雨森内科、其他歯科の先生方と、御一緒に、つめて、帰る時は、無事であった事を、喜びあって、帰途についた。来る日も、来る日も、ひどくなって行くので、中央地区の医師、助産婦に稲佐地区の、助産婦も加わった。 ある日、旭町方面に空襲があり、大波止が大変、救護班に出動命令が出た。県庁下の長崎署前迄行くと、空襲に会い、命からがら防空壕に飛び込んだが、その時は命はないと思った。此のようなきびしさの中で、八十才に近い母と、母の姉に当る叔母が二人で、留守を守っているので、出動の場合、身がちぢまる思いであった。夜間二人を置いて、鉄帽に身をかためた私が、細々と空襲の場合の注意をして家を後にする時は、言葉の末がつまって仕舞っていた。ある時は歩きながら涙が出て、最後になる時の事など思った。此の様な有様を見て、東古川町々会長、原田民重氏が、北高湯江の奥さんの、疎開先をゆづって下さった上に二人の老人を、送り届けて下さった。地獄で仏に会ったと言う言葉が、人々からつたわって来た。あたたかいお心を受けて、身が軽くなり、出るにも入るにも、安心して行動が出来た。この様な時に私はいつも神様がきっと手をさしのべて下さったと、感謝し、嬉しい時は感謝を、悲しい時は祈り、願い等して明け暮れしていた。 八月九日雲の多い昼近く、せん光で目がつぶれたかと思う強い光を受け、とっさに、家の入口に出来ていた防空壕に飛び込んだ。間をおかず、大炸裂の音で、耳がつぶれる程の大音響が、近くでしたので、とにかく、今迄に指導者からきいていた爆弾が投下されたのだと思った。間を置かず、ゴーッと言う音と共に、真黒い爆風と言うのが、風頭山の方から中島川の方に向いすごいいきおいで吹き付けてすぎた。黒々とした風で、一寸先は見えなかった。入口に顔をむけて、暫く様子を見ていると、表で、人々がさわぎ出し吾を先にと大声で叫び風頭の方に走って行く様であった。静かになったので、壕から出て見ると家の中はガラスが、粉ごなに、たたみに、柱につきささって、棚の上の物は全部落ちて、爆風のゴミがつもっている中を、ズックの靴のまま家の模様を見廻って、心細くなり表に出て誰かにききたくなり戸口に行くと、格子戸は飛び散り、入口の戸はヘシまがって、表に出る事が出来なくなっていた、入口の格子戸を強く引いたり、おしたりしていると、やっとの思いで身をすり出す事が出来たので、吾が家を見ると大事な、助産婦の看板も格子戸も影も形もなく、とんでもない処に爆風が吹きつけていた。 二間先の家に飛び火が来て、近所の人々が水のリレーで、大さわぎで消したが、その頃は川向では火災が出ていた。この様なさわぎの時も、爆音は頭上でつづいていた。 表の道路は落下物で歩行も出来ない、その時の心は恐怖と不安で風頭に、逃げ度いと思う心で一ぱいであった。が腕の救護班の文字に対して、今迄つめていた興善学校目指して歩き出した。紺屋町の相良光子姉宅は道筋なので、門を入ってみると大変な混雑である、飛び火を今消した処との事であった。相良先生は興善学校はだめだ、県庁が火に包まれて延焼しているから、、日赤新橋町に行く様言われたので、日赤さして急いだ。 着いて見ると早や先生方が、治療中で、水々と呼ぶ男女、次から次に全身を血だらけになった人、腕を片手でささげる女、足を引きづる男私は先生方が治療された後のホータイ巻き、ガラスの破片を取った後赤チン湿布、又はオブツの清めなど、手傳して夜になった。その間爆音に驚き窓から、二度も飛び降り親指をくぢき、二ヵ年は痛んだ。壕の中で夜を明かしたが遠い空は、昼の様にあかるかった。火の海が幾日続いたであろうか、心細くて気がテントウしそうであった。 九日は朝食だけで、一睡もせず朝を迎えた、壕の中に御一緒した歯科の先生が、家族の疎開先へ、歩いて行こうと思うと、話されたので、母の疎開先え歩いてわたしも、行き度いと願ったが、十日の朝家に帰って見て、朝食後、寛弟が、兵器勤務から帰宅せぬ事を知り、十日夜までつめて、十一日義姉と話し合い、十三日先づ諌早に連れて行かれたかもしれぬと、道の尾迄歩き、汽車に乗った。列車には肉親をさがしに行く人々で、誰も彼も暗い顔であった。役場とか、学校等、尋ね歩いて、めぐり会えず、悲しさと、不安とのため、此の日の太陽のてりつき方は、あの吾等の姿は、一生に一度で結構だと、天に向って叫び、絶叫した。持参の握り飯二個の内一個を食い、梅干を水の代りに、ある家ののき下で昼をとり、諌早駅に歩いて行き、又空襲に会った。 ひとまづ母の疎開先に行き相談して、翌日又道の尾より焼野ヶ原の兵器にたどり着き、弟の安否をきき、手がかりがないので家に帰る事にした、長崎駅前は山の上迄焼野ヶ原で、駅の鉄骨はまがり、大波戸から県庁、築町も焼けて夜は一歩も外出など出来ない暗闇であった。弟が佐世保に連れ去られた事を聞き、道の尾駅に行くため歩いた道に人間がテンプラの様に、やけだだれて一列に並び、ワラ家の一時つくりの小屋に寝ていた、又道には自動車だけ焼けただれて、人の形もなく爆風で飛んだのだろうと思った。弟は佐世保駅の次の駅の病院にいた、胸がつまって唯手を握ってなぐさめた嫁が昼間私が夜間看病した。食物は何も入手できず粥と梅干で命をつないだ。せめて長崎であったらと思い思い残念で仕方なかったが運命であったろう二十一日に静かに悲しい人生を終った。栄養失調であったか原因は原爆がもとである。どんな時でも胸の中に残念だと只声がひびいて来るのである。その日も仲々機嫌よく出勤し健康なる体を自覚していたであろうに三人の子供と家内、母を残して小さな箱の中に静かに帰宅した、このような悲しみは二度としたくない。又この様な悲惨な苦労は絶対にする事がない様祈るのである。 運命の午前十一時二分、直径一・五二メートル、長さ三.二五メートル、重さ四.五トン、爆弾は一万メートルから投下され、地上約百九十メートルで炸裂した、投下幾日か前に、吾等の頭上はるかの点に不思議なものが浮いていると話していた。西山方面と思えた。七万参千八百余人の市民が殺され、七万五千人が負傷した。二十七年後の今も人々は原爆病に苦しみ続けている。病棟はいつも満室である、世界で大国と言われている国々が今も、原爆をつくっている、平和と言う事をどんな風に解釈しているのであろうか、不思議でならないのである。 (長崎教会)
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