「私の原爆被爆体験」 溝口 助作
私は戦争中から稲佐警防団第二分団の衛生部長として主として毒ガスの研究をやっていたが、昭和十八年十二月二十一日長崎県から長崎県薬剤師会の常務理事を命ぜられ、医師会、歯科医師会の幹部とともに県、市の救護本部の仕事に関係していた。
昭和二十年八月九日は朝から空襲警報が発令されたので、浜口町の自宅を出て市の救護本部のあった長崎市役所に急行した。
広島市に次いで新型爆弾(当時は実態がよく分らなかったのでこう呼んでいた)が、投下されたのはこの日の十一時頃であったのである。
(一) 救護本部の状況
◎ 火煙は市北の天を焦すのみ原爆などと知る由もなし
◎ 正体はとまれ火傷の患者らに見境もなく塗るチンクオレフ油
これは、当時の自作の短歌であるが救護本部は市役所でも北側のコンクリート庁舎最下部にあった。ピカッと閃光が一閃し異様な音がしたのは十一時二分とされているが、市の北部の天が焼け出したようである。勿論瞬間の出来事なので何が何やらさっぱりわからない、正気に帰った時は負傷した人々で救護本部は一杯であった。
初めは市役所の職員が主であったが段々一般市民もやって来出した。火傷の患者が大部分である。救護本部と言っても連絡所見たいなものなので、設備があるわけではなく備蓄薬品も少ない。幸いやけどに塗るチンクオレフ油とマーキュロ位はあったので、火傷の人にはチンクオレフ油を塗り、傷には赤チンキを塗ってやる。午後になると山を越えて多くの重傷者が次々にやってくる、出来るだけの治療はやったつもりだが、もう塗る薬もなくなった。その中には成瀬助役も居てお互いに無事を喜び合った。夕方ともなれば浜口町の家族のことが心配になってくる。小康を得たので浦上街路を徒歩で走る。駅の近くまで行くと初めてこれは大変なことだと気づいた。進むに連れて一面火事場の跡のようでまだ方々で燃えている。顔がほてる、靴が焼けるようにあつい、瀕死の負傷者がいっぱいである。
道ばたに倒れまだ生きている人には救急カバンから薬品を出して治療をする、どれだけの効果があったか分らないがそうせずには居られなかった。そうしてまた走った。浦上方面に近づくに従って惨状は目を掩うばかりで声もでない。
(二) 浜口町の自宅の状況
◎ 無事なれとの祈りも空し視野に満つ爆傷死者の正に累々
◎ 火煙のまだ立ち上る家跡に六人の子らの遺骸さがしぬ
◎ あか黒く焼けただれたるこの屍体は妻ながら憤ろしく
朝出た家は跡形もない。燃え残りの火がくすぶって煙をあげている。送り出してくれた家族は、六人の子供は、妻は何処へ行ったのだろう?家の前の側溝に跡の石垣に走るような格好で奇麗にミイラ化した残骸がいくつか見える、まさかあれではあるまいと思いながらそれらしい場所を探し廻る。裏の防火水槽の中に浮いている一人の女の屍体を見つけた。半裸であるが、燃え残った着衣、赤黒く焼けただれてはいるが顔の形から妻に間違いない。
嗚呼何たる残酷! 初めて戦争に対する怒りが心頭に燃えた。やり場のない憤りに身を震わした。その附近に骨らしいものが散在しているが、六人の子供達の整った屍体は一つも見当たらない。
隣組の防空壕の中も捜したが発見することは出来なかった。夕闇が迫る頃たまたま出合った近所の人が「あなたのお父さんらしい人が下の川の鉄橋の下附近にいたですよ」と知らしてくれた。
私は走った、万一父が生きていてくれたら家族の消息も分るかも知れない。跡で判明したのであるが、下の川の鉄橋附近は爆心地から二〇〇米位の地点である。下の川に爆死者、瀕死の重傷で動けない人達が重り合って足の踏み場もない有様である。
その中で奇跡と云うべきか川辺に横たわっている父を見出したのである。全身焼けただれた上に、どうしたことか真夏と云うのに冬の丹前を着ている。気息奄々で意識も確かでない。只一言「寝床を布いてくれ」と小さい声で云った。場所は川原の石ころの上である、今まで何時間寝ていたのかわからないが、体が痛んで火傷のため寒いのであろう、それかと云ってどうすることも出来ない。幸い私の雑のうの中にはいくらかの薬品が入っていたので出来るだけの手当はした。
少し落ついてから周囲を眺めると殆どの人は息も絶えたらしいが、中にはピョコンと起き上がってパタンと倒れる、また繰り返す。その中で水を欲する声がする。父も水がほしいらしい。土手を上って水を探しにゆく、幸い近くに水道管が破れて水が吹き出している所が見つかったので、かぶっていた鉄骨に汲んで帰って呑ませる。何回か通ううち殆んど死んでしまったようだ。私の鉄かぶとの水が末期の水となった人達も何人かいたのである。鉄道線路の上は勿論汽車は走らないので道の尾方面へ歩いて行く人は夜を徹してつづいているが、この川原に正気でいるのは私一人である。うめきつづけている父のそばで一夜を明かした。その父も東の空が白らむ頃とうとう息をひきとった。
朝になって何もしてやれない不孝を詫びながら、せめて亡骸だけでも家跡に運び度いと思い種々試みたが2米ばかりの川縁の石垣を抱えあげることはとうてい不可能である。あきらめてそのまま救護本部へ急いだ。
途中銭座町の通りで郡部の親切な人達であろう、炊き出しをして居られるので握り飯を頂いた。昨夜から何も食べていなかったのでその味は今でも忘れない。救護本部は各方面との連絡や治療でてんてこまいである。
昼は医師会の先生達と馴れない手つきで怪し気な食事を作って食う。昨夜から焼け残った市内の家が飛び火したように燃えて、県庁の附近一帯が焼けたとのことを聞いたが、見に行く暇もない。
然し午後になると、今朝下の川の川原に放置してきた父のことが気になる。少し早めに切りあげて帰路に着く、道筋の焼跡には人が見られる。肉親を探し、知人の安否を気ずこう人々であろう。
下の川に着くと父の亡骸は多くの犠牲者と共に今朝のままの姿で横たわっていた。今日はどうしても家跡まで運ばねばならないと思いいろいろやって見るが、どうしても土手の上まであげることが出来ない。見かねたのであろう、鉄道線路の修理をしていた人達が手伝いにきてくれたので、ようやく道まで抱きあげ背負うことが出来た。五〇〇米ばかりの道をよろけながらわが家の焼跡までたどりつくことが出来た。妻の亡骸も昨日のままである。日暮を待って、焼け残った材木を集め、独りで父と妻の亡骸を焼く、当時は町のあちこちで肉親や知人の死骸を焼いたものだった。夜を徹して骨になるまで焼いた。枯渇してしまったのか涙も出ない。星空を仰ぎながら独り寂しく妻を焼く、妻は被爆時に大半焼けて失っていたので割合い早く骨になってくれたが、父は簡単に焼けてくれない。
◎ 妻子らの骨壷あわれ並べおき廃虚の丘に独り父焼く
近くには人一人いない。稲佐山の中腹はまだ燃えているのか火が赤赤と見える。浦上駅から岩川町にかけても火煙りが見える。これらを背景として鉄道線路は歩行の人達がひっきりなしに続く。近くの道を一頭の裸馬が赤く照らされ嘶いて通る、悲鳴のような嘶きである。凄惨な状景の中で廃墟と化した爆心の丘で私は黙々と被爆の妻を父を焼いたのである。
(三) 長崎氏特設病院開設前後
◎ と切れつつ陛下のお声ひびくなり救護本部の雑踏のなか
昭和二十年八月十五日救護本部の古ぼけたラジオが鳴り出した。雑音の中で天皇陛下のお声が聞ゆる。日本降伏、敗戦の詔勅である。
一瞬呆然とする。ヘナヘナと座りこんでしまった。
戦争は終った。然し被爆者救護の吾々の務めは終らない。否、むしろ多忙を極めていくのである。
種々な経緯はあったが、新興善小学校に市立の特設病院が出来救護本部はそこに移った。医師会、歯科医師会、薬剤師会の全員は事情の許す限り原爆の治療に奉仕した。
組織も出来た。医師会の高尾克己先生が院長となり私が薬局の主任に推された。
炎天下を毎日トラックに乗って浦上方面の防空壕を調査して廻り患者を収容する。新興善の各教室とも超満員である。独りで歩いて或は連れられて来る外来患者もひっきりなしである。
当時に於けるこの特設病院の開設意義は高く評価されていいと思う。
やがてアメリカ兵が進駐してきた。米軍の幹部もこの病院を訪ねた。私も薬品関係の責任者として米軍の衛生関係の最高責任者に当面必要な医薬品、栄養剤などについてたずねられその結果医薬品、粉末ミルクなどを配給されるようになった。これらは当時としては誠に貴重な物資であったので一同喜ぶと共に早速患者の治療に使用した。
◎ 米軍人われを訪い来しと聞かされて見ればいかめし米軍大佐
◎ 握手する毛むじゃらの手よまぎれなしわれらが恩師グレンブルナー
特設病院に於ける鎮西学院時代の恩師ブルナー先生との出合いは全く思いがけないことであったので劇的シーンであった。ブルナー先生は単に中学時代の恩師と云うばかりでなく、卒業後も飽の浦教会を通じて御交際を頂いた間柄である。今日は立場が違う、一方は戦勝国アメリカの進駐軍の偉い将校であり、こちらは敗戦国日本のみすぼらしい一市民である。
私は問われるままに原爆投下による家族のことなど話した。先生はうなづきながらいろいろと聞いて下さった。そうして最後に、「戦争は勝っても負けても結局悲劇でしかありません」という意味のことをしみじみと云って私を慰めて下さった。それから乞われるままに三菱病院初め被爆者の治療をして居る病院を案内して廻った。
因にブルナー先生は、長崎にABCCが開設されると来崎され職員として数年を長崎で過された。
特設病院の想出は尽きないが、余り長くなるので割愛するが私共は昭和二十年の十二月まで三ヶ月を此処で働いた。特設病院は現在の長崎市民病院へと移行したのである。
(四) 結語
◎ 爆死せし妻子の遺影も色褪せて忌祭重ねつつわれも老いゆく
原爆投下の日から殆んど爆心地で放射能に塗れ栄養らしいものもとらなかった私が原爆後遺症らしいものもなく、年二回の被爆者検診にも異常なしで今日まで過してきたのも一重に神の御恩寵の賜であると感謝に堪えない。
残る生涯を捧げて恩恵に酬ゆる決意である。
◎ おほらかに生きなむと希ふわが胸も時に切なき孤独感充つ
(文中の短歌は拙著歌集"あさひ"より引用)
(飽の浦教会)
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