Being Nagasaki~ 日本バプテスト連盟 長崎バプテスト教会 ~ English / Korean / Chinese
「原子爆弾」悲惨記 太田 和子 「姉ちゃん アーン、姉ちゃん!!」 十分か十五分かして姉だけはやっと自力ではい出した。オッ!!家が木がすべてが破壊しつくされている。町が燃え出した。皆んなは、「宏ちゃん、明子ちゃん……」 姉ちゃんは安心させようとしてこう言うのだこれでおしまいだ。坊やを抱いたまゝ博子は最後の讃美歌を歌っていた。ひっぱりだしたお昼寝布団を水に浸して姉はこれをかぶってみた。 一、二時間たった。 四時頃か或はもっとあとで金比羅山の方から二人の中学生が下って来た。この二人の力でやっと出してもらった、智子の右足は折れていた。(以上博子及び智子姉の語りしを)この間の記事は後に…十二日大村より帰り、十三日香焼三人を見舞に行く。 十三日 空襲ばかりで香焼島へ着いた時には十二時はとうに過ぎていた。病院から羅災者収容所(豊部隊)へ豊部隊で教へられた壕へはいって行くとまだ目なれぬ私の足下に「ア!姉ちゃん!!」髪をみだしやせおとろへて目ばかり光らせた智子。右手の岩肌にくっついて担架のまま…あの声!あの顔!今もなお、あざやかに残るあの声、あの顔こらえても、かみしめてもあふれる涙であり出そうにも言おうにも、すぐには思い出せない言葉であった。 そこから十数メートル奥に姉と一緒に首をかたむけた坊やが担架の上に座っていた。 夕方解除になって日ノ浦分院に移された二人の子にたった一つの寝台が与えられた。前後左右皆鼻も口も見分けのつかぬ位の火傷が多く異臭を放ち、やけた鉄筋の家はムンムンと暑く、蝿がブンブン飛んでいる。各ベッドの間には家族が動き、階下から直接裏山へ掘った壕の中にはこれまたあふれるばかりの羅災者である。泣く、わめく、うめく…夜になっても灯りなく蚊帳なく、やけた建物は熱気をはき、やっと涼しくなった頃は夜はしらじらと明け始める。 食事は重湯少々、夕方吐気をもよおし、ゲッゲッと二へん程黄色いものを出し、三べん目に一尺程の回虫を吐出し更に小さいもの二匹、自分でも驚いた様子だった。 夜など寝台の上り下りさえ困難だと言って寝台の間に坐布団を敷いて寝ることもあり、卵白に血で色をつけたようなものをジャア、ジャア下した。 坊やは傷の化膿をおそれて冷そうとするけれども横になるのを嫌がるのと、水の入手困難、香焼の水のぬるさのため日に日に顔のはれ方が変わって遂に化膿してしまった。 父のもたせてくれたのと、私が来る時船の中で中さん(女学校の同級生)にもらった茶飲み一杯程の砂糖を楽しんで少しづつ重湯に入れ、お茶に入れして喜んでいた。父が来るとひどく喜んで膝からはなれず死の前日等父の居る間はひどく元気で、とても明日にも死のうとは思えなかった。 ひどく父の後を追って階段までおくり窓からシッケイをした後、海を行くポンポン船を見てさっき父の教えて呉れた「早く治って、あの船で帰る」と言う事を喜んでいた。しかし身体は熱にやけ、傷は化膿してすでに顔面神経を切り膿は耳から流れ出していた。 智子と坊やと一緒の寝台の時は坊やは落ちる落ちると言って寝台の真中に痛い方を上にして海老の様にまるくなって寝るので困って居た。 何と階上も壕を見做すという。可愛そうにこの暑いのに智子や坊やは爆音の度に布団をかぶらなくてはならぬ。窓にはガラスもないのだ。目の前で急降下するのが寝ている智子にも見える。智子の足の治療上壕には移せぬという。 「重大放送の内容は?」 汀寮の挺身隊は昨夜の中に引揚げた。応徴工は解散になった。婦女子は待避令が出た。患者は縁故を頼って早急に引揚げよ、引揚げ先なきものは江川病院に移す、この島は危い。米兵が来たら逃げ場はない。、今日、明日にも米兵の来そうな話である。 三人の病人 父との連絡は取れない、どうしてもだめなら四人一緒に死ぬ覚悟をした。 膿は耳からどんどん流れ出す、時迫る! 医者は帰っていない。一人では心細い、笠間さんを呼びに行ったがその人がほんとうに最後を立会って(?)もらう人になろうとは… やがて最後の水を求められて気がついたように、しかしあまりに早すぎた、もう少しは保つと思ったのに八時二〇分、小島、笠間さんと私にとりまかれ隣り合った智子と姉に守られて静かに息を引いて行った。すっかりやせた真蒼な顔は今までの坊やとは思えないものではあったが、驚く程美しく気高いものであった。オイタツコの小さな手を胸にくんで単衣から伸ばされた足も可愛かった。 すぐ労務課に線香を取りに行き、坊さんを呼んでこられたので戦災者としてあとにも先にもはじめてのお経が坊やにあげられた。蒼い顔はまだやわらかな肌触りを持ちながら、次第に冷えて行った、白い布はかぶってもなお暑かろう、蚊もたかろうとあおいでやる夜だった。 あゝ身を以て戦の苦しみをなめた坊や、四つの子がお母ちゃまとさえ呼べないでどうして一ぺん位お母ちゃまと呼んで私を困らせてくれなかったの、坊や、坊や明子姉ちゃんとお母ちゃまと一緒においで坊やが死に坊さんも外の二人も帰って行ってからの姉の要体は変って来た。 夕方戦災後はじめての新聞をもらいに行く時も坊やは姉にあづけて行けたし、夜、小島さんが来た時もまだまだ元気で自分の病気の事を半時間以上も尋ねたりして、少しでも早くなおろうと努力しているかに見えた姉が「あたしも今夜死ぬ、坊やと一緒にゆく!」と口走り出した。抜け散る髪はボウボウとして血走った目はギラギラ光り、唇から口中は化膿し見るも凄まじい形相でもだえるようにこう叫ぶ。今まで起きて用をたすにさえどんなにか苦しい思いをし、欲しいものしてもらいたい事もあったろうものを、二人を看ている私に遠慮してか、一度も無理も言わず、世話もやかせず用便後寝台にあがれないでハッハッと苦しい息をつきながらも、だまって、しゃがみこんでいる姉だった。お見舞の人が来ても、父が来ても起きて目を覚まして話していることも出来ない位の時でも何とも言わず自分の事だけはやっていた。でもこの一日、二日便もやっと黄色を帯びて来たかに見えていた。「坊やも居なくなったし、今夜はどんな我侭でも言っていいから、そんなこと言わないでなおって」用をたして寝台にもどると熱が急に上り顔が真赤になり、動悸がひどく半時間経っても沈まらない。このまま死んで行くのだと言いもし、私もそうではないのかと思う。苦しそうに「今夜死ぬ、今夜死ぬ」を口走る中に又虫を吐き出すと、だんだん熱も下がり動悸も止んできた。 「ホラ、このままなおるのよ」と言ってやるとやゝ安心したらしかった。が、もうその考え方は半分狂人じみて来て急に大声に叫んだりした。「血便をすると死にそうだ、私は血便だろう」「いゝえ便はほら、昨日からよくなったでしょう。文姉ちゃんもそう言って喜んだでしょう。」と言っても「いや血便だ」と言張って聞かない。わざわざ便器を灯の下まで持って行って見て来てやっても承知しない、そして「血便は助からないそうだ」とのみ言い「誰がそんなこと言ったの」「医専の生徒が」「いつ、いつお見舞いに来てくれたの」「夢の中で……」萬事この調子である。そしてそれを動かすべからざる絶対の真実のように信じている。それはまだ好い方で、しまいには私には全く判らないことを言い出す。坊やが死んだと言う事は、私にも智子にも、そして姉には最大の打撃だったのである。その夜は湯ざましがなくなった。水で我慢してくれと言っても、さっきの小島さんの話で生水は絶対にいけないと言ったからとて頑としてきかない。とうとう暗い室内の各寝台をまわって湯ざましを貰って歩いた。 もう起上がる力はない。寝たまま便をとるようになった。 坊やの枕下には茶碗にたてられた一本の線香の煙がゆれている。あれ程いっぱいだった戦災者の寝台が歯が抜けたようにポツンポツン空になっている。家の三人もはじめ一つのベッドだったのがもうこの二、三日は三台を占領したけれど両端はまだ空いた。その坊やも今夜は白い布をかぶっている。だがお通夜をするには私はあまりに疲れていた。眠らないつもりでは居たが姉の横にいてもどうしてもこらえられなくなった。両手であおぐ団扇が知らぬ間にボトリと落ちている。お線香の消えぬ間にと盗むようにして眠るがすぐ目が覚める。線香が十五センチ程燃えていた。しばらくして、又同じ位寝た。その夜もそれっきり、一睡もしなかった。もっとも姉がわるくてつききりではあったが、翌朝七時頃でもあったろうか、智子に何かしてやっていると姉は自分で用便に立った。昨夜から起きられない筈なのに、しかもいつもとは反対向きにしている、終って立った拍子にドウとばかり智子の寝台に倒れかかった。驚いて駆けつけると目はランランと光り、苦しげに肩で息をしている。起そうとすると、「苦しい、一寸待って!」それさえも口がきかなくて言葉がはっきりしない、何か言おうとするが聞きとれない。「口がきかなくて、はがいい」と言う一寸たって「さあ起きましょう」と言っても、自分で倒れたことは判らない 美しかりし、優しかりし姉、寮の面会にも、街を歩くにも、友達にも、羨やまれ誇らしかりし姉、露を含める蓮の明けやらぬ池の面に大きくふくらみしまゝに散ろうにも似て…… 痩せてほりふかくおそろしいまでに美しく見える姉、坊やの傷口は大きく口を開いて耳からはまだ膿が出ている。しかし、眠るというにはあまりに崇高な姿である。 火が燃え出した。蒼い足の裏を焔がなめる紫の煙が夏山の緑の中に消えて行く、もう見て居られなかった。煙と共に二人は上って行く、青空に消える煙の中に二人の面影は大きく高く上る、上る、二人一緒に手をつないで焼場の石垣の石の一つ一つが人間の顔に見え出す。 寮の所の角で見た人の後姿が姉のようでドキリとする、夕方吉田さんに行くのに、子供の泣声が坊やの声に聞える。残りの二、三人の者も病院を出ることになった。担架の人が揃わない。 午後になって、はぐきに血の黒いかたまりがついている。とってやると又いつのまにかついている。 重湯だけとって(その頃は終戦後で人が居らぬため飯のみ)いざ飲ませる時になって鼻血が出だした。少々のことでは止まらない。だんだんひどくなって鼻から口からガボガボ出る、梅干のようなかたまりが鼻にひっかかる。口から出る。受けてやった弁当箱がすぐいっぱいになる。チリ紙は洗面器いっぱいになった。医者は帰って居ない、看護婦に言われたようにしても止まらない。 「今、先生は死ぬとおっしゃったね」「いいえ、注射したからもうすぐとまるって」「いいや、死ぬとおっしゃった、私はちゃんと聞いた」「どうせ死ぬ人に誰が注射するもんですか、助かるからこそ注射もするのよ」その死に面した姿は極めて静かであり当然来るべきものを待つと言う風であった。幾年もの修養を経た悟りきった人とも思える静かな表情で掌を胸に組みつつ、つぶやくように家で死ねば静かに死ねるのに、お父ちゃまに会いたい、お母ちゃま、博子姉ちゃん神代に行きたい。姉ちゃんはつれて行くと言ってとうとう連れて行ってくれなかったね。等々今こそ人生の幕を閉じんとするのを希いともなく歎きともなく、お母ちゃま姉ちゃんも皆な一緒に行くね… 夢みるように、わづか十二才の子にかくも従容たる最後をとげられるものであろうか、「鏡を見せて……」「さっき隣の小父さんに貸してあげたからないわ」「いや、その辺にあったから見せて」抜けたみだれた髪、やせこけて皮のはげた頬をつたう血を見て、悲しげに何にも言わずに鏡をおいた。あわててふいてやっても「さあきれいになった」と言ってやっても、もう再び鏡をとろうともしなかった。 「足がしびれて来た」 瞳孔は刻々に散大して行く。脈は薄く間遠く。午後一時二十分、遂に最後であった。やっぱり手を胸にとったままで身体をふき足の繃帯を解くと、蚤が一匹飛出した。最後まで智子の血を吸い智子を苦しめた蚤。 未整理のまま 八・九日 十一時頃空襲解除になって授業が始まった、もう終りに近い。 一〇日 朝から大村へ運ばれた戦災者を見に行って駅に死体を見ておどろいて帰る。 一一日 やっと帰れるようになった。 一二日 長崎より二里半の道を歩き始める。汽車は空襲はげしくして乗れない。道々戦災者に逢う、着物は殆どやぶけて半裸の人間が杖にすがって来る。顔や手足がウジャウジャけた人間が来る、わずかのガラクタと一緒に車の上であえぐ連れの肩にぶら下るようにして来る。水源地をまわる頃から家の被害が目につき出した。瓦がバラバラになって桧皮がたれついている、だんだんこわれかけ、かたむきかけ、いよいよ半つぶれになって来た。 山をまわってパット眼界が開ける。オ、これが長崎 一定毎に道は悪くなった。 神学校の下からいつもの散歩コースに入る悲惨とも凄惨とも言葉はなかった。これが長崎、死の町長崎、否、死以上、言葉以上の町、曽っての日の夢の町、詩の町、美の町、あゝ今赤一色 赤とはかくも荒漠たる色であったろうか。 母の行方不明、明子の死と三人の収容された事を語る博子はなお四人の命の恵まれた事を感謝していた。父は泣いて来ては家に入れぬとどなっている。屋根と床(?)とか戸板一枚づつの小屋に坐って昼食をすました。 一家八人 羅災当時、父、米機B-29、原子爆弾による攻撃目標なりしも、曇天にして照準誤りの為爆弾目標を外れて被害を免れたる所の造船所に出勤中、被害は直接にはなし。母、隣組の貯金事務の為、爆心より二〇〇~三〇〇mの銀行へ出かけて居り行方不明、死体も未だ不明。 (聖三一教会) ◆次のページ「出版に際して(陶山茂)」 |
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