Being Nagasaki~ 日本バプテスト連盟 長崎バプテスト教会 ~                           English / Korean / Chinese

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「女子挺身隊」 山口 カズ子

 一九四五年八月九日、松山町に住んでいた私共の家族はいつもと変ることなくそれぞれの務め先に向って元気に家を出ました。三菱長崎兵器製作所大橋工場

 戦争は日一日と激しさを加え食べるものも着るものも底をついたかに思えました。一日に何回も空襲があり、落ついて眠れる夜はありませんでした。

 三菱兵器製作所に女子挺身体として働いていた私はその日一回目の空襲警報の解除により避難先の岩屋山麓から戻って長袖の厚い服から半袖に着替え一息ついておりました。

 一瞬ピカッと光が走ったかと思った後はしばしの間何もわからなくなり、気がついた時は天井板などの下敷になっていました。眼鏡をかけていた私はとっさに目がやられたのじゃないかと、おそるおそる目をあけてみると見えます。手と足を動かすと動きます。生きている!という思いが私の身体の中を走りました。やおらかぶさっている天井板をおしのけて、立上がって辺りを見廻すと百人程の人が働いていた広い部屋が一面一人の人かげも見えません。突然、少しはなれた向うの板切が動いたかと思ったら、一人の人がはい出してきました。しばらくしてすぐ足下から同じ挺身隊だった人が顔を見せました。私はホッとした思いで一刻も早くこの場から逃れ出ようとしました。するとその友達がいつも身につけていた救急袋をもって行かなければと云い出しました。私はそんなことよりとにかく安全なところに逃げたい一心で鉄筋コンクリート建の三階の部屋から緊急階段をつたって下りました。

 当時屋上には一面に防火用の水が溜めてありましたが、その水が滝のように流れ落ちていました。建物の外に出てみますと、工場のあちこちからあわてふためきながら出口を目ざして走り行く被災者の群れで一杯です。焼けたゞれ着物はボロボロになり、髪ふりみだした人々がたゞたゞ人の逃れる方向へと動いていきます。工場の建物の数ヶ所から火の手が上っているのが見えます。目の前を頭から全身血まみれになった人が通り過ぎて行きました。一瞬「血だるま」と云う言葉が私の頭をよぎり、冷たいものが全身をつらぬきました。何が何だかわからない、あまりの有様に呆然と我を忘れて立ちすくんでいた私に「顔が真黒よ、これでふきなさい」と云って一枚のタオルを渡してくれた人がありました。その人が誰だったか、今もってどうしても思い出すことができません。私は咄嗟にそのタオルをマスク替りにして、安全と思われる場所を目ざして逃げました。自分の顔は自分には見えませんでしたし、顔のことなど気にしているゆとりはありませんでした。ただ異様なあたりの臭いに、思わず知らずタオルを口に当てゝいましたが、今にして思えば、このタオルのおかげで、あのガスを吸わないですんだのかも知れません。やっとの思いで幾人かの人々と山陰までのがれ、べったりと地べたにしゃがんでしまいました。炎天下を必死の思いで歩きのがれた身に木かげの風が冷たくホッとしましたが、その間も、飛行機の音がするたびに又やられる!と云う恐怖が全身をしめつけていました。ふと自分の手を見ますと両手の皮膚が黒くなってペラペラむけています。私はどうしてこうなっているのだろう、とむけている皮をつまんで取りました。痛いともなんとも感じませんでした。もちろん原爆の放射能によるやけどなどと云うことは思いもできないことでした。どの位そこでぼんやり過したのでしょうか、遠くの方であかあかと燃えている火の手を見ながら気のぬけた人のように何も考えることができませんでした。しばらくして、市内全体は火の海で何ともできないから諌早の方の避難する。汽車がきているからそれに乗るようにという伝令が回り、それぞれつれだって線路の方へと足を運びました。一面黄色くなった畑にこれ又焼けて茶色になったカボチャがごろごろところがっていました。太陽が何となく光を失なったように大気がけむって見えました。ほこりっぽい道路にちぎれてぶらさがった電線、あまりに変り果てたまわりの有様でした。その中に黒々とした汽車が止まっていました。まともな姿の汽車でした。ふだん止まったことのない畑の真中に長々と止まっていました。何とも云えない不思議な思いで汽車を見ました。長崎駅前広場

 今でもあの時の不思議な気持はどこからきたのかとそれが不思議です。ホームでない所に止まっていますので、地面から入口まで高くて乗るのに大へんでした。車内は避難者で一杯でしたが、皆魂のぬけたように言葉もなく静かでした。

 汽車は諌早でとまり、私はそこで身体中のもの全部が出てしまったかと思われるような大量の下痢をしました。幸いなことにこの一回の下痢だけでその後内臓の異状はありませんでした。私は人々の避難するまゝに国民学校の講堂に収容されました。広い講堂の床に足の踏場もない程一杯のけが人が寝かされていました。私のすぐそばに韓国人らしい男の人が背中一杯のやけどで何やら大声で苦しそうにうめいています。見るもむざんな姿の負傷者の群に手の施こしようもなく、傷口は一日一日と化膿し始めました。何日目かにやっとお医者様が回ってこられ、手当をされようと私の手を持上げられたとたんボロボロとうじ虫がこぼれ落ちました。諌早の警防団や婦人会などの方々が炊出しその他お世話をされていましたが、その中に女学校の時の先生の顔を見つけ私は思わず「先生」と呼びかけましたが、先生は誰のことかおわかりになりませんでした。私の顔は真黒に焼けていたからです。私が名前を名乗ると、ほんとに間違いなくそうなのかと信じられない様子でした。諫早在住の西村さんと云うお友達が私のことを知り、何くれとなく面倒を見て下さり、私はどれ程救われたかわかりません。青い小さなトマトでしたが自分の家にできたのだと云って食べさせてもらった味は今でも忘れることはできません。周囲にいた避難者の目がその小さなトマトに注がれていたのを思い出します。皆まともな食物など何日も食べていなかったからです。井樋の口付近の焼失電車

 そして、そこで幾日たったのでしょうか、まるで記憶がありませんが夜になって暗くなり、空襲警報が鳴るたびに元気な人は防空壕へと走って行くのを耳にしながらもう死ぬかも知れないと何度も思ったことでした。

 大橋の兵器製作所のとなりには三菱造船の工場もありましたが、そこには純心高女の生徒達が学徒報国隊として大ぜい働いていました。勿論その工場も焼けてしまいましたが、その生徒達をさがして先生や修道院のシスタ-の方が私の避難所にも来られました。純心の生徒達を一箇所に収容してお世話をなさるためでした。私も卒業生だと云うことで特別そちらに移してもらうことになりました。夜がふけて当時教職員の結核療養所であった建物へと運ばれました。タンカにゆられながら果しなく広い夜空に星がまたゝいて美しく不思議におだやかな気持でした。

 六畳ほどの畳がしいてある部屋に三人くらいずつ収容されました。こちらに来てからは毎日傷の手当もしていたゞきましたが私のやけどの傷は、いつ癒るとも知れない位で両手から化膿した膿がどんどん流れ出ました。やけどの顔にも真白な薬が一杯ぬられ、まるでお化けのようだったのでしょう。看病に来てくれた親戚の叔母が何とも信じられない様子で何度も間違いなく私なのかと尋ねました。口びるは大きく腫れ上り食事を取るのに箸で食物をわずかずつおし込まないといけませんでした。

 幾日かして何となく空襲もなくなり、あたりの様子が違ったように感じられましたがそれが終戦ということだったのでしょう。私はものも云う気力さえなく、家族のこともすべてもう駄目なのだとあきらめてしまって考えることもできませんでした。

 ある日かすかに讃美歌の声が聞こえてきました。一人の生徒の臨終の祈りだったのです。そして翌日、亡きがらがさびしく運び出されました。それより讃美歌の声は毎日のように聞えるようになりました。シスターの献身的な看護のかいもなく生徒達は一人又一人と櫛の歯のかげる如く死んでいきました。私と同室の二人の生徒も何の外傷もないよう見えましたが、二人とも静かに息を引とりました。私は涙もなく当然のことのようにそれを見送りました。わたしの魂は死んでいたのでしょうか。

 こうした中にあって一番傷がひどく、とても助るまいと誰もが思った私はすこしずつ元気を取り戻し、さしもの傷も快方に向ってまいりました。やけた口びるが、大きなかさぶたとなってかっぽりととれ元の口となりました。五十名程収容されていた負傷者でしたが、とうとう私一人になってしまいましたので、叔母の家に移ることになり初めて起きて髪をとかしますと、ザラザラとガラスのかけらがこぼれ落ちました。諫早から長崎までの遠い道のりを私はリヤカーに乗って帰ってまいりました。叔母の家は農家でしたので、食糧難の時世にもかかわらず私は充分なものを食べさせてもらい日一日と健康を回復し、九死の中に一生を与えられて今日に至りました。

 松山町にあった家は一瞬にして灰となり、母と妹二人あの原爆の炎の中にどんなにして苦しみ焼かれ死んでいったのでしょう。私はその最後を確かめ得なかったことをほんとに申訳ないと思います。

 三十年を経た今年の八月九日、私ははじめて一人の友のあの日の最後のさまをつぶさに聞くことができました。

 三十年たって、やっと人々はあの恐ろしい事実について省み、語ることができたというのでしょうか。

(バプテスト教会)

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Sunday 5:00pm

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