Being Nagasaki~ 日本バプテスト連盟 長崎バプテスト教会 ~                           English / Korean / Chinese

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「1945・8・9」 吉見 信

 予告らしきもの
 原爆のいく日か前のころで有ったかと思う。私は、茂里町の三菱重工業長崎製鋼所構内の路上で、便箋二つ折りくらいのチラシ二、三枚を拾った。石版刷のような文字で「八月九日、長崎灰の町」というふうに、印刷してあったと思う。一体あれは、何であったのであろうか。
 居合わせた誰れかと一緒に読んだと思うのだが、結局大して気にしないで、捨ててしまったのだが、若しあれが空から撒かれた伝単であったとしたら、長崎原爆は、事前に予告されていた事になる。

 そうすると又、長崎原爆は、本当は八幡市に落下される筈であったのを、その日の八幡市の空が雲に閉ざされていて、投下にまずい状況であったので、長崎が不幸な替え玉にされることに成ったのであり、その故にその後、毎年の長崎原爆記念日には、必ず八幡市長が来崎して、記念式に列するのだ……という噂さと、矛盾することになるのだが。一体あれは何であったのであろうか。

 噂といえば、広島原爆の直後に、「広島に新型爆弾が投下されたそうな……何でも、地上に落ちる前に炸裂して、水平に威力を発揮するのだそうな……」という程度の、軽い噂さが早くも町に流れた。もし、その新型爆弾のもの凄さが、もっと詳しく伝えられ、受け止められ、殊に軍、市当局に於てそれに基く避難対策、指揮とかゞ執られていたら多少とも……と口惜しい気がふとするのだが、あの時点、あの状況、あの威力の下では、やはりどうにも成らない事であったであろう。

 但し、当局が、広島原爆の情報を充分キャッチしていた事は確かである。後の事だが、市消防関係のお偉方が、「我々は知っていた。たゞ人心の動揺を恐れて、発表を避けたのだ…」と語るのを聞いた。

 市民は、新型爆弾と聞いても、結局従来の爆弾のちょっと変ったの……ぐらいを想像し得ただけであった。だから噂さの後も、相変わらず庭先のチャチな素堀りの防空壕や、森の樹々の繁み、崖などに作った横堀り防空壕にかくれる事で、結構安心と心得ていたのであり、その日もそのようにして七万四千が生命を落とし、七万五千が無惨に傷つく、という結果になったのである。

 その日
 その日、その時、私は銀屋町教会の、牧師舘の二階で眠っていた。枕許に、読みさしの開いたまゝの本とリュックサック一つを置いて。前日から少々健康を損じていたからなのだが、実はその日も、爆心圏内の茂里町にゆくつもりで出かけようとしたのを、階下におられた石橋夫妻から、顔色が悪いと止められて、布団に戻ったという訳であった。ピカッと来て、ドカンと続いた。眠って閉じていた目にも、部屋一杯の閃光であった。頭のそばのリュックに、窓ガラスの大きな破片が真直ぐにグサリと突き刺さっていた。
 牧師舘は屋根、壁が破れ、小窓から会堂の異状が見えたように思う。私はとっさに、会堂が小型爆弾の目標になったのだと思った。被害状況から察して。
 実は爆弾ではなく、爆風にやられたのであった。古い大きな建物は、あっさり基礎から二、三〇 センチも押し出され、捩れ、まことに覚束ない格好になっていた。追いかけて爆撃第二波は必至、そして此のあたりは一切灰……と考えずにはいられなかった。私は急いで、会堂横の土を掘って、講壇用の大型聖書と讃美歌を埋め込んだ。教会の何かを残しておきたい……と思ったのだ。

 県庁々舎の方から火事が起り、ぐんぐん拡がっていった。銀屋町教会の裏通りあたりの家にも、火の粉が降って燃えついたのを、今、誰かがゞ消し止めた……という声があった。危いことで有った。

 諏訪山(諏訪神社のある山。正しくは玉ぞの山であろうか、我々はお諏訪さんとか、諏訪山公園とか、いろいろに呼びならわしていたと思う。とにかく此の山が市の中ほどまで裾を曳いて、屏風の役目をしてくれたために、長崎市は全焼を免かれたのである)の向う側がやられたのだ……という噂さを聞いて、私は路面電車の道伝いにその方向に進んだが、長崎駅附近までで引き返えす外なかった。余焔の火と煙に阻まれたのである。駅の姿もなかった。その夜、偵察飛行らしい一機が、夜空をゆくのを見た。

 翌日
 その翌日、今度は諏訪山越しに、目標に向った。山の裏側の道にさしかゝると、そこは負傷者がうごめき、屍体が横たわる地獄の道であった。馬の大きな死骸まであった。空襲警報とともにいつものように山に逃れ、そしてそこで負傷し、又息絶えて、そのまゝ一夜をあかした人々なのである。いつもはひっそりとした緑の木の道であるのだが。
 目の下に、広く拡がって見える筈の町々が、まったく消え失せていた。一面の焼野原の真中に、三菱重鋼の本舘だけがポツンと焼け残っており、そのはるかな西方の丘に、二、三階のあたりから上をスカッとなで切りにされたような形になった鎮西学院の校舎が、それでも大きく残っているのが目に入った。

 救護活動
 焼け、ひゞ割れ、それでもなお残っていた製鋼本舘を根城に、素人の救護活動が始まっていた。製鋼関係の人々が主力と見えた。私もそれに加わった。救護活動といっても、一人の医療専門家が参加していた訳ではない。一隊が出て行っては、次々に負傷者を担ぎ込んでくる。それを一階から三階までのコンクリートの床の上に並べて寝かせ、握り飯、粥、水などを与え、大、小便のお世話をする。死んだ者は運び出して焼く、というような仕事であった。

 始めのうちは、担ぎ込まれてきた人々の姓名を尋ねて、ともかくも紙切れの名札を作って頭のそばに置いたのだが、それは間もなく不可能になり、結局誰れとも判らない遺体を焼きつゞける結果になった。骨の山が出来た。

 一びんの薬品、一巻の包帯がある訳ではなかった。固い、荒々しいコンクリートの床に敷いて寝かせる一枚の布もなかった。たゞ生きている者共が、無惨に傷つき、或は死んでゆく人々のために思わず自分の手足、体を動かしつづけた……というに過ぎなかった。
「こんな手当の仕方では、生きていられる者も死んでしまう……」とインテリふうの負傷者に文句を言われた。まったくそのとおりであった。

 「私の家は○○町のどこそこだから、庭の防空壕から着物を取り出してきてくれ……」とせがんだ半裸の火傷の女性が居た。その○○町はとっくに消えて、跡かたも無くなっていたのである。臀部をザックリと大きく割られ、よくも生きていると思われる婦人が「おしょう取りやして……」と島原弁で丁寧に言った。「おしょう取りやして……」は、「お世話をかけまして……」ほどの意味であろうが、私は心から驚いて、この重傷者の謝辞を聞いた。どういう人で有ったのだろうか。あの深手で、あのように挨拶の出来た人は……。全身焼傷の人が多かった。それにさまざまな負傷、深手を負っている人々、それから無傷でありながら、次第に弱ってゆく人達……後から判ったのだが、それは放射能にやられた人達なのであった。無傷だのにどうして…….と不思議に思っているうちに、静かに刻々弱って行き、時が来ると急にスッと消えるように死んでゆく。秋の日暮れのような終りであった。いささかの苦悶の跡もない。

 魚河岸の鮪のように無惨に並べられたまま、人々はあまり口を利かなかったと思う。苦痛を訴える者もあまり無かったと思う。恐らく、ものを言う気力を無くなっていたのであろう。多くは既に、死の影におゝわれていたのであろう。又、私たちも、だんだん言葉を失って、黙々と働くようになっていったようである。無言で新しい負傷者を迎え、無言で死者を送り出す……。無言地獄である。

 無言地獄の中から、たしかに「先生……」と呼ぶ声が有った。若い女性と思えたが、顔も姿も変わり果てていて、全く誰れとも判らなかった。判らなくても、他のことは暫く忘れて声のそばに座る筈であった。一言でも多く聞いてあげる筈であった。而も私は、そうしなかったと思う。そうしなかったと思えてならない。何ということだ。

 一人の小さな男の子が、どこからか出てきた。無傷であった。水を与え、握り飯を手の上にのせたと思う。去って、暫くして又出て来た時には、目のふちに黒い隈が出来ていた。これは死ぬ……と思った。戻っていった。そしてそれきり現れなかった。私はなぜ彼を暫くでも膝の上に乗せてやらなかったのであろうか。どんなにか淋しかったであろうに。

 収容されている人々の数は多く、我々の心もゆとりが無くなってゆき、殊に地獄に堪えるための……慣れ……が始まっていたのではないか。慣れなければ、地獄に負けてこちらが参ってしまい、ものの役に立たなくなってしまう。慣れるとは、あのような場合に是非必要な自然の自己防衛性とでも言えるものなのであろう。併し同時に、慣れるという作用に怖さをも感じる。異常とか地獄とかに慣れてゆく……ことは、こちらも何ほどかづつ異常化し地獄化してゆくことのようだ。而も自分は正常である……と思いつつ……である。

 私はもう一つの、恐いものを見た。
 一人の女の子…小学校五、六年生くらいの…が、弟、妹と見える小さい子供二人と並んで寝かされていたが、突然大声で「天皇陛下万歳…」と叫んで死んだ。これは少女の自然の声ではない。作られ、押しつけられた理念が臨終の少女に「天皇陛下万歳」と叫ばせたのではないか。これは教育と言うものの怖さであると言えないか。もし日本が日米戦争に勝っていて、今も、天皇と軍(軍と天皇…かもしれない)の支配する国であったとしたら、あの少女の叫びはことによると、教材用美談の一つに加えられているかも知れない。少くとも利用され得るものである。

 異常は異常を呼ぶものだ。地獄を呼ぶものだ。不断の防禦、そのための不断の闘いが必要である。神の武具によって。但しこれは軽く言えることではない。飽くなき闘い或は果てなき闘いであろう。

 針尾海兵の衛生隊の一行が若い将校に率いられて到着し、我々は体がらくに成った。
 玉音放送を聞いた。たしかに。直ぐその後から、今のは偽放送だと憲兵隊の車が拡声機でわめいて走りまわった。

 いよいよ焦土決戦あるのみだ……と大いに力んで見せる御仁も居た。

 はじめて、附近を歩いた。韓国人徴用工員の宿舎の跡が有った。どこの工場の関係のもので有ったろうか。あのあたりは、製鋼、兵器、精器などの大工場が並んでいた地域である。宿舎前の空き地に、頭と腹とが焼け残った無惨な男の屍骸があった。頭と腹は焼けにくいのである。

 幼児を抱えた母親、折り重なって半焼になっている婦人達、虚空をつかんで、踊っているような姿の屍体が多くあった。おもちゃの括り猿のような格好で、高い電柱の先端にとまっているまゝの死体もあった。火傷死体の多くは殆ど裸で、よく焼けた鰯のようであった。
 原爆の朝、私がゆこうとした場所、浦上寄りの製鋼分室あたりは、巨大な火葬場と化していた。真白に、細かく焼け上った沢山の骨が、あたり一面に一杯に撒き散らされていた。

 

 教会関係
 銀屋町教会員の被爆死亡者の、森 崇君は、ラバウル戦の生き残りである。海軍技術少尉で出征し、どこかの海の上から讃美歌の一説を書き添えた便りを寄せたりした人だ。帰還して、暫くの後に製鋼に入った。原爆のいく日か前に、私と一緒に城山教会を尋ねて、祈りからの警報に、肩をならべて校舎の防空壕にもぐり込んだのだが、原爆では骨も残さなかった。彼は結婚したばかりであった。

 久保田豊長老(製鋼所長)の前夫人は、所用で出かけられて消息を絶たれた。道の尾へゆかれたのだそうだが、時間から図ると大橋附近で被爆されたのではないか……ということであった。直後の、そして最初の記念会を、製鋼の防空壕の中で行ったように思う。長老、お嬢さん、私とで。

 大学病院前で、運送業をやっていた庄司兄は救世軍から転入会された方、「神様の御用があるから、私は死なゝい……」などと、元気にいう人であった。なお活水女専教師の湊川孟弼氏とその御家族、長崎医大助教授であった石崎氏、活水英文学科出身であった小柳さんの名も憶えなければならない。小柳さんは松葉杖をついて、熱心に礼拝出席をしておられた人である。

 

 会堂修理
 原爆後の礼拝は、破れた大家根のすき間から空が見え、雨が降り込む会堂で行われていたが、やがて鎮西学院から、会堂を仮教室として一時借用の申し入れがあり、学院の手で応急修理が行われた。併し資材不足の祈りからで、大屋根修理は、瓦下に土をのせないで瓦を並べ、壁は上塗りが出来ず、千鳥に結んだ麻のすさが剥き出しになったまゝであった。間もなく進駐軍が、長崎に上陸して、一人の若い兵士が教会に来るようになった。彼はカレッヂ・ボーイで、良心的戦争拒否者、強制重労働のキャムプに送られる代りに、教育部の助手をさせられているとかであった。彼と教会の青年達の手で、会堂の内部に白ペンが派手に塗られた。明治初期以来の古色をおびた典型的なメソヂスト会堂が、アイスクリーム・パーラーのように変貌してゆくのは少し悲しかったが、荒れ果てた会堂が一応きれいに成って行った。

 

 九月一日に、小学生であった長女が、疎開先の島原で病死したのだが、全身黒焦げになり、或は深手を負い、放射能を浴びて、焼けた土や、荒々しいコンクリートの上で亡くなった無惨な死者達を見てきた私には、医師に看られ、畳の上で死んだ長女が、心の底から、仕合わせ者と思えた。山の火葬場への道端に、紫露草が咲いていた。
(元銀屋町教会牧師)

 

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