▶▶カトリックとプロテスタントの違い◀◀

★長崎教会の宣教活動★

 キリスト教を大きく分けると、「カトリック教会(旧教)」・「プロテスタント(新教)」、そして「正教会」の三つに分類することが出来る。日本キリスト教史において、ここ長崎は大変重要な意味を持つ土地と言える。 カトリックにとっては長いキリシタン禁制の歴史を乗り越えて、現存する最初のカトリック教会(国宝:大浦天主堂)があり、プロテスタントの教会にとっても最初の教会堂が1862年に建てられた。現在、長崎市内にはカトリック教会とプロテスタント系の諸教会が多く点在しているが、正教会は稲佐国際墓地に小チャペルが残るだけで教会活動はなされていない。

・・・(越冬のため毎年長崎を訪れたロシア艦隊のために1883年南山手にロシア正教会のチャペルが建てられ、「ロシア寺」とか「森の教会」と呼ばれていた。)

 それぞれの教会は、様々な違いはあるが、聖書が唯一の神からの啓示の本であることを基盤として、救い主イエス・キリストによって示された神の愛と救いを受ける、癒しと慰め、そして奉仕の場となることを目指している。

 カトリックとプロテスタントの違いを一言で説明することは簡単ではないが、本来カトリックとプロテスタントも共に同じイエス・キリストを信じる信仰の源流の中にあった。しかしながら16世紀まで、「主なる神」のように教会や教皇に権威があることを強要され、個人的に聖書を読むことも許されていなかった当時のカトリック教会に異議を唱える人々は、長年迫害され続けていた。免罪符を買えば天国へ行けるなどと称し本来の聖書信仰から逸脱していた当時の教会の姿勢を批判し、ついに1517年ドイツにおいて、カトリックの一修道士マルチン・ルターが、「救いは善行によらず、信仰によって(のみ)救われる」との聖書の教えに基づいて、抵抗(プロテスト)したことから、「宗教改革」と呼ばれる波がヨーロッパ各地へ広がって行った。

 残念ながら歴史を振り返ると両者ともに、キリストの福音に基づく信仰議論ではなく、骨肉の争いへと発展し、民族・国家の争いへと利用された経緯があり、実に多くの過ちを双方共に犯したことを認め忘れてはならない。  そのような歴史的背景の中、アナ・バプテスト(再洗礼派)などは、双方からの迫害を受けながらも、政教分離(政治と宗教が結びつき一宗教を庇護することを認めない)を主張し、自由意志による信仰決断と洗礼などを唱え、近代の信仰理解に近い宗教改革がなされていった。
様々な違いを現在も両者は持っている。その一部を紹介すると・・・

  旧教(カトリック) 新教(プロテスタント)
洗礼
(バプテスマ)
右と親による幼児洗礼 各個人の自覚的決意
権威 教皇・教会・聖書 聖書のみ
聖書 旧約・新約・旧約続編 旧約・新約 全66巻
誰に祈るか 右に加え、聖母マリヤ・聖人 主なる神(父・子・聖霊)
聖職者の呼び方 神父(結婚不可)
牧師(結婚可能)

 これらのような違いはあるが、現在は(地域や教会によっても異なるが)、お互いの違いを越えて、同じ主なる神を信じる姉妹姉妹として理解し合うことに努力を進めてる。特に、「聖書:新共同訳」が両教会団体の協力によって日本聖書協会から出版されて以来、同じ聖書を用い、現代社会に証しすることを願いそれぞれに活動を続けているし、両教会において、讃美歌・聖歌など教派を越えて相互に導入され、同じ「キリストの体」として、教理などの違いを認めつつも、良き交流を深めて、日本人に真の福音を伝えたいと願っている。

▶▶長崎における両教会の歴史◀◀

長崎におけるカトリック教会略史 

 カトリック教会は、永禄十(1567)年に長崎地域で布教を開始し、長崎最初の布教所を宣教師アルメイダが建て(現春徳寺)、市内随所に教会が建てられ、一時は住民全てがキリシタンになったともいわれている。しかしながら、豊臣秀吉のバテレン追放令から二十六聖人の殉教など長く厳しい苦難の歴史が280年余り続くこととなった。

 (※当時カトリック教会は様々な修道会が日本に来て伝道し、修道会同士の対立も激しかったことが記録に残っている。特に、ポルトガル・スペインなどは国家と宗教が政治や貿易活動において癒着(政教一致)していたことにより、当時の幕府関係者が他のアジア諸国のように植民地化される恐れを与えてしまったことを否定できない。又、当時のキリシタン大名は領民の強制改宗を行い、自ら進んでカトリックの信仰を受け入れた人々も多くあったが、神社仏閣を破壊するなどの行為は、本来キリストの示された福音信仰に立つ今日のキリスト者の視点から見ると、理解し難い行為がなされた。そのようなことから歴史を再検証すると、キリシタン迫害は日本史上の汚点であり蛮行以外の何ものでもないが、日本が植民地化されなかったことは評価することも出来るととの議論もある。)

 さて、1864年(元治元年)、外国人寄留地に大浦天主堂(国宝: 現存する日本最古の木造教会建築)が建てられプチジャン神父のもとにやってきた浦上の潜伏キリシタンたちの発見が世界に衝撃を与えた。残忍極まりない迫害の中で300年近く信仰を守り続けた浦上のキリシタンたちの発見は、世界でも類のない奇跡として評価され、300年近くの信仰迫害の歴史に終止符が打たれるかに見えた。しかしながら明治の文明開化がなされたにも関わらず、依然とキリシタン禁制は続き、長崎のキリシタンたちは捕らえられ、津和野をはじめ日本各地へ送られて引き続き拷問を受け不当な扱いを受けた。 福沢諭吉は、「西洋事情」の中で、文明の政治の要訣に、「信教、人々の帰依する宗旨を奉じて政府よりその妨げをなさざるを言う」と論じたはじめた。1871(明治4)年11月、岩倉具視を全権大使として、木戸孝充、大久保利通、伊藤博文らが欧米諸国を歴訪中、至る所で、日本のキリスト教迫害を非難され、禁教を続ける限り条約改正は不可能であることを知らされた。

そして、1872年夏ごろから、各地の官吏による迫害は少なくなり、浦上の配流信徒らの待遇も改善され、プロテスタントの信仰を持ったが故に入獄された人々も含めて釈放された。1873(明治6)年2月21日に至って、ついに「今般高札をも撤去候間、念の為御通知申候」という書をイタリア公使が受け取り、決してキリスト教が公認されたわけではないが、日本史において実に286年のキリスト教禁制が解かれたと人々は理解した。

 その後、信教の自由を手にした浦上では信徒らの手によって規模と美しさとで東洋一を誇っていた浦上天主堂を中心にカトリック信徒が増加した。しかしながら天主堂500メートル先に、1945年8月9日11:02am、長崎に投下された原爆によって浦上地区の信徒12000人中8000人が爆死し、再び大きな犠牲を強いられた。戦後、悲しみと嘆きを祈りに変えて復興し、今も多くのカトリック信者が住む町として教会が点在している。

長崎におけるプロテスタント諸教会略史

 プロテスタントの信仰が芽生え始めたのは、カトリックから遅れること約三百年を経ていた。1853(嘉永6)年、米国提督ペリーの黒船が浦賀に現れ、長い鎖国の眠りから覚まされることになり、この船には日本での宣教を夢見る青年ゴーブル(後にバプテスト教会の日本最初の宣教師となり、最初の日本語訳新約書の翻訳出版を行った)が乗船していた。実際の国内での伝道活動は6年後となるが、ペリーも信仰を持っており、船隊が浦賀に入港して3日目の7月10日(日曜日)、旗艦サスケハンナ号で礼拝をあげ、詩編100篇を朗読し、一同は讃美歌(現在の讃美歌5番)

♪ こよなくかしこし わが主の御栄え  よろずの国民 御前にひれ伏せ
国々異なる よろずの言葉の 称えの歌声 み殿をを揺るがさん ♪

 と英語で歌い、未だに禁制下にあった日本で最初に聞かれた讃美歌となった。

 さて、長崎においては、明治維新に溯ること1859(安政5年)の1月、バプテストの医療宣教師マクガウアが長崎に寄港したことから、当時中国で働く英国人宣教師(聖公会)リギンスに長崎での宣教と療養を勧め、彼が5月に来崎したことがプロテスタント宣教史の第一歩となった。長崎の崇福寺の一室を提供され、長崎奉行所の8名の通詞(つうじ)に英語を教える傍ら、伝道活動を行った。彼は漢文キリスト教書をたちまち千部以上配布し、この勢いに仏教側は脅威を感じ、1861(文久元)年の西本願寺の記録にも、耶蘇(ヤソ:キリスト教)の書が流布するばかりか官許になっていることを上申、注意の喚起を起こしたほどであった。その年、C・M・ウィリアムスも同年6月に来崎し、リギンスと共にその夏頃から、長崎在留の外国人のために日曜礼拝を領事館や私邸にて守り、いつの日にか日本に救いのがもたらされることを、小さい集まりながら熱心に祈った。日本人との接触はまだ容易でなかったが、外国人を中心に1863(文久三)年に小さいながらも、プロテスタント最初の教会堂が建てられた。(最初の教会は横浜である。「教会堂」は建物を指し、「教会」は建物も含めることもあるが、そこに集まる人々を指す)。 一方、フルベッキはオランダ改革派教会宣教師として1859(安政六)年11月7日に長崎出島に上陸、市内に日本家屋を求め、12月末から夫人と共に伝道を開始した。1860年1月26日、マリア夫人は女の子「エマ」を出産し、フルベッキ自らが洗礼を授けて、「キリシタン時代以来、日本における最初の洗礼」がされたと喜んだが、一週間後に召されるという悲しみを体験した。人格者としてフルベッキの名は知れ渡り、1860年、長崎奉行は新設された「済美館」の校長として迎え、1866年には佐賀藩が長崎に創設した洋学校「致遠館」でも彼の指導を仰いだ。 その頃彼の門下生として、西郷隆盛、後藤象二郎、大隈八太郎(重信)や横井小楠の甥たちなどもあり、彼の門下生は500名以上にも及んだ。

 1877年(明治10年)には出島に新教最初の神学校が建てられ、神学教育が開始された。又、ラッセル女史らによって活水女学院が創設され、当時まだ差別待遇の中にあった女子教育の黎明となった。バプテスト教会による正式な長崎での伝道活動は、1896(明治29)年にウワーン宣教師と菅野半次によって伝道が開始され、その他の教派と共に「ヤソ教・アーメン教・邪教」などとの様々な迫害を受けながらも伝道活動が展開された。
日本キリスト教史の第二の暗黒時代となったのは、第二次世界大戦中、国の宗教政策の中で、プロテスタント諸派が日本基督教団に合併され、天皇を神とする国家神道の思想のもと、皇居拝礼などを礼拝の中に行わないなら閉鎖へ追い込まれるなどの苦渋の日々を過ごした時期である。国家に最後まで抵抗したホーリネス教会(当時片渕)は閉鎖に追い込まれりし、多くの教会信徒も散らされたが、細々と教会は信仰を守り続けた。
そして1945(昭和20)年の8月9日、一発の原子爆弾投下により多くの信徒を含む長崎市民が犠牲となった。しかし、戦後逸早く諸教会は海外からの様々な援助と祈りを受け復興と自主独立の道をゆっくりと歩むことになった。 現在、長崎キリスト教協議会は約20の教会団体で構成し、協力関係を保って、それぞれ独自の教派教団の特色を生かして歩み続けている。