▶▶教会の歴史◀◀

(伝道開始1896年~教会創立1902年)

1.開拓伝道期

1896 Nagasaki

 バプテスト派による長崎伝道は、1896年5月、ウワーン宣教師と菅野半次師によって伝道が始まり、同年6月17日、長崎市東上町7番戸(現在の県立美術博物館近辺)に、敷地26坪、建物20坪の普通の民家を借りて「浸礼教会長崎講義所」の看板を掲げ、本格的な伝道が開始された。当時講義所には講壇1個のみで椅子などは無かった。
 「長崎講義所」は、門司浸礼教会の講義所(伝道所)の位置付けで、長崎市のみならず佐世保まで出かけて宣教するなど広域的な伝道が行われていた。当時の長崎市の人口は、7.2万人で、アテネでは第1回近代オリンピックが開催された年、世界がスポーツで1つに結ばれようとした年でもあった。

2.桜町教会時代

桜町会堂他 苦節6年半の歳月を経て1902年10月7日、教会は長崎市桜町18番地(現在の市水道局の隣接地)に移転して名前も「長崎浸礼教会」と改め、新に発足することが「長崎県指令第2232号」で許可され、ここに「長崎バプテスト教会」が誕生したのである。(浸礼とは水に浸す洗礼、つまりバプテスマを意味する)
教会設立日は、長崎浸礼教会の第3代目牧師・渡辺忠呉までは10月7日となっていたが、その後、第4代目牧師・尾崎源六の時に1902年11月3日に変更され、今日に至っている。
桜町時代の教会は、民家ではあるが敷地79坪、建物22坪と広くなって、講壇のほかに長椅子14脚が置かれるなど集会所としての機能アップが図られた。また教会の中には、キリスト教関係の図書を取次販売する書店が設けられて「福音書店」と称して文書伝道を始めると共に、1905年にはバプテスト派の最初の機関紙「星光」を発刊した。この所で24年間、福音の宣教に励んだ後、勝山町に新たな伝道地を求めて移ることになる。

3.勝山教会時代

In front of Katsuyama church

 1926年9月26日、教会は長崎市勝山町4番地(現在の影浦内科病院の地)に新会堂を献堂して移転し、教会の名前も「長崎バプテスト教会」と改めて歩みを始めた。翌1927年の金融恐慌、それに続く世界恐慌、1930年はロンドン軍縮会議が行われ、軍縮政策のあおりもあって三菱造船所では大量解雇が行われ、「国内の社会不安や経済の低迷を解決する唯一の途は海外への発展」という機運で1931年満州事変が勃発、蘆溝橋事件をきっかけに日中戦争へと日本は悪夢の道をさまよい続けていった。
そのような暗い時代の中、教会は「協同伝道」や「神の国運動」と称して、超教派による全国的な伝道を展開していくが、1938年に「国家総動員法」が成立し、「忠君愛国」の精神を国が国民に強いり、臣民意識の高揚と神社参拝を重んじる国策の嵐の中に教会も翻弄されていった。1945年8月9日11時02分、長崎市に原爆が投下され多くの人命が奪われた。当教会員2名も犠牲となり多くの者が被爆した。

4.片淵教会時代(その1)

Earlier Nagasaki Church 27年間に亘る勝山町での宣教活動を後にして、1953年5月3日、市内の片淵町1丁目1の4番地に新教会堂(設計はヴォーリス建築事務所)を建て、献堂式が行われた。勝山町の旧会堂は原爆被災の影響もあって破損がひどく、雨漏りや危険を伴っていた。幸いに米国南部バプテスト教会より被爆地広島・長崎の両教会への会堂特別献金が献げられ、これを契機に移転計画が進められた。しかし、土地の詮索には困難を極め、計画に着手して2年の歳月を経て、ようやく現在地に土地が与えられ、建築に着手できた。
この新会堂の完成に伴って、戦前・戦後の混乱期(バプテスト派の東西両組合の合同、日本キリスト教団への結成と加盟) を脱して、戦後の日本バプテスト連盟の発足により長崎バプテスト教会の伝道基盤が整えられ、新会堂の献堂と共に礼拝の平均出席者数も100名を超える盛況が続けられていった。

5.片淵教会時代(その2)

100th year anniversary

 片淵に移って41年の歳月を経た後、会堂の老朽化と、これからの長崎バプテスト教会の宣教ミニストリーを検討する中で、教育館と牧師館の新築並びに礼拝堂の修改築の必要が示され、1991年4月に建築委員会を発足させ、3年半の歳月を掛けて教会建築について検討を重ねて、1994年9月24日、遂に献堂式の運びとなって現在に至っている。
長崎バプテスト教会の100年の歩みは、1902年、桜町に教会が誕生して勝山町に至るまでに51年間、勝山町から片淵に教会が移ってから49年間の歳月が流れた。この間、戦後、日本基督教団から脱退して、1947年4月に日本バプテスト連盟が結成され、16教会中の1教会として新たな希望に燃え、戦後の混乱期を歩み始めて間も無く無牧師となり、1951年に新牧師を迎えるまでの約4年間、近隣諸教会の牧師や宣教師の諸先生方に助けられながら信徒が結束して教会を守り通した事実、この危機の中に働かれた主の愛と、恩恵をひしひしと感じるものである。
更には、1964年4月に幼児教室「光の園」を開設し「幼な子をキリストへ」の精神と運用が今に至るまでの約40年間息づき、近隣社会に良い証しと伝道を続けている。今後、益々高齢化が進む中で、教会が果す役割と働きの1つに「高齢者対策と教会福祉」がある。高齢者の方々に対して優しい教会であると共に、病む人に対してもキリストにある「愛と優しさ」に富んだ教会形成を目指し、仕えるためにこの世に来られた主の愛を実践していく教会として、この世に仕え続けて行くことを祈り願って歩み続けている。

 今後、益々高齢化と少子化が進む中で、教会が果す役割と働きに高齢者や青少年を含めて全年齢層に対して全人的な関わりを持つ教会であると共に、病む人に対してもキリストにある「愛と優しさ」に富んだ教会形成を目指している。仕えるためにこの世に来られた主の愛を実践していくため、教会に与えられている7つの目的を果たしつつ、キリストにある真の平和を創造する教会として歩みたい。